パーチェス便り

Main Post

#20 KANY卒業式式辞2025 ――慶應義塾ニューヨーク学院 35周年――

 慶應義塾ニューヨーク学院は 1990年に創設されましたので、今年 2025年は、記念すべき 35周年記念の年に当たります。まずは、こうした記念すべき年に卒業する学院生諸君を、心から祝福したいと思います。

  1990年に本学院が設立された時の日本は、 1980年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「パクス・ジャポニカ」とも言われたバブル経済のピークでしたから、「慶應義塾」という記号と「ニューヨーク」という記号が結びつくと、いかにもファッショナブルな印象を醸し出したでしょう。けれども、以後 35年という歳月、この学院が強力に維持され、伝統が受け継がれててきたのを見るにつけ、そこには偶然どころか必然とも言える摂理があったことを痛感せずにはいられません。

 というのも、福澤諭吉先生は初めてアメリカを訪問した1860年には西海岸のサンフランシスコとの間を往復したに過ぎませんが、二度目のアメリカ訪問時の 1867年には、同じサンフランシスコから上陸しながらパナマに下り、東海岸へ回って、ニューヨークすなわちマンハッタン島に上陸しておられるからです。つまりあと二年後の 2027年になりますと、福沢先生のニューヨーク初訪問 160周年を迎えることになるのです。

 この 1867年のニューヨーク初訪問が、福澤先生に大きな収穫をもたらしました。この時、先生はロウアー・マンハッタンのメトロポリタン・ホテルに宿泊しながらアップルトン書店での大量の書籍を購入し、ウォール街近辺を散策しますが、この時に買い込んだ本や見聞したアメリカ文化が、以後の慶應義塾における講義の源泉となるからです。特筆すべきは、購入した本の中にはピーター・パーレーの『万国史』( 1837年)やクワッケンボスの『自然科学』(1860年)ばかりか、ブラウン大学学長を務めたフランシス・ウェーランドによる『経済学概要』(1837年)までが含まれていたことでしょう。この本『経済学概要』こそは、 1868年の戊辰戦争で江戸中に砲声が響き渡り、歌舞音曲が禁じられていたさなかにも、福澤先生が戦争に対しては脇目もふらず、慶應義塾の塾生相手に延々と講義しておられた時のテキストに他なりません。昨今のわれわれも、世界各地における戦争などさまざまな災厄が降りかかる時代を生き延びていますが、まさにそうした尋常ならざる時代だからこそ、虚心に学問に立ち向かう心を決して忘れてはいけないことを、福澤先生は身をもって示しました。したがって、その日 1868年 5月15日を忘れないよう、慶應義塾では「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日」と命名し、必ず記念講演会を開催することになっています。ちなみに、この日が西暦では 7月 4日、すなわちアメリカ独立記念日に重なることも、忘れるわけにはいきません。

 それでは、福澤先生はどうしてそこまでアメリカ文化に傾倒したのかといえば、ひとえに民主主義の精神に惹かれたためです。今日では想像もできないことですが、 19世紀半ば、戊辰戦争の渦中の日本は、徳川幕府に代表される封建主義がまだまだ幅を利かせていました。それは、自分が生まれた家の身分を日本人は決して克服することができないという制度的限界でした。福澤先生ご自身の言葉で言えば、こうなります。「家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間にはさまっている者も同様、何年経っても変化というものがない」。

 ところがアメリカに来てみると、エイブラハム ・リンカーンのように、労働者階級の家に生まれながらも、やがては実力を認められて、アメリカ合衆国の第 16代大統領になりおおせている。俗に北米では「丸太小屋から大統領官邸へ」 “From Log House to White House”という表現で、どのような生まれの人間でも叩き上げれば、努力次第で大統領にだってなれるのだという立身出世の思想を要約していますが、これこそ民主主義精神の根幹です。だからこそ、日本的な封建制度にがんじがらめになるしかなかった下級武士の父親・福沢百助に対して、のちに福澤先生はこう回想するに至ります。「門閥制度は親の敵でござる」(以上『福翁自伝』第一章「幼少の時」)。つまり 1860年代における二度のアメリカ訪問は、まさに親の仇だった封建主義を克服すべく、アメリカ合衆国を形成した新しく画期的な民主主義を、福澤先生は胸一杯吸い込んだと言っていいでしょう。

 以後も、慶應義塾とニューヨークの関係は深まるばかりです。福澤先生のご子息である福沢一太郎氏がニューヨーク州北部にあるコーネル大学に留学しなければ、福澤先生はアメリカにおけるユニテリアニズムを受け入れることはなかったでしょうし、孫にあたり幼稚舎長も務められた清岡瑛一先生もまたコーネル大学に留学し、福澤先生の名著『福翁自伝』を英訳し、コロンビア大学出版局から刊行するに至っています。したがって、慶應義塾が 1980年代に、美智子上皇后も留学しておられたマンハッタンヴィル大学の土地の一部分を購入し慶應義塾ニューヨーク学院を設立したことは、決して時代の趨勢に乗った偶然の産物ではありません。 明治維新以来、福澤先生と慶應義塾は一貫してニューヨーク(州)に深く関わってきたのであり、その意味で、本学院が創立 35周年を迎えたこと、まさにその記念すべき節目の年に卒業する諸君は本学院の歴史を大いに誇りに思ってよいことを、この場を借りて強調したいと思います。

 卒業生の諸君、本日は本当に卒業おめでとう。福澤先生以来折紡がれてきた日米慶應の “Triculture”の精神が、君たちの将来において大いに膨らんでいくことを、心から祈ってやみません。