パーチェス便り

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#13 百年の桜屋敷

 北米ポストモダン文学を代表し、先頃惜しくも亡くなった作家ポール・オースター(1947~2024年)には、2005年刊行の『ブルックリン・フォリーズ』 Brooklyn Folliesという長編小説がある。出版当時に読んだきりだったのだが、彼には珍しいスラップスティックな秀作だったので、訃報とともに読み返したら、なんとその冒頭は「どこか静かな場所で死にたい」と思う主人公の語り手が、それならブルックリンがいいんじゃないかという勧めに従い「さてどんなものだろうかと、翌朝、ウェストチェスターから赴いた」“Someone recommended Brooklyn, and the next morning I traveled down from Westchester to scope out the terrain” という場面から始まるではないか。初版刊行時には物語の面白さにあれよあれよとページをめくるばかりだったので、いまにしてみると、この冒頭についてすっかり忘れていたのは不覚である。慶應義塾ニューヨーク学院もその一部を占める「ウェストチェスター」という単語の重みにまったく気づかなかったのだ。それは、 18世紀後半にはすでにニューヨーク州最大の富裕地域、超高級住宅地といわれたウェストチェスター郡から、 20世紀後半まではむさくるしく、七十年代以降にようやく高級住宅化が始まったブルックリンへ死に場所を求めるという動きがどういうことか、すっかり見過ごしていたことを意味する。

 もちろん、こうした再発見は、私自身が長い間アメリカ研究を専攻してきたがために重要に感じられるにすぎないのかもしれない。古くからの住民にはとりたてて意識するほどのことでもないかもしれない。だから面白い。

 このように考えるのも、昨年 2023年の夏、一時帰国していた時の恵比寿の自宅に中国の新華社通信から依頼があり、インタビューを受けるという変わった体験をしたからである(1ページ目:http://www.news.cn/mrdx/2023-07/21/c_1310733515.htm

( 2ページ目:https://h.xinhuaxmt.com/vh512/share/11602603?d=134b241&channel=weixin)。

 現在の自宅に移る前、我が家は坂の下にある母方の祖父母(栗田大禄&稔子)の家に同居していた。大きな桜の樹があるこの屋敷は私自身が生まれた家なのだが、祖父母や大伯母たちの話を総合すると、 1910年ごろに、慶應義塾の外国人教授のための邸宅として建てられたことがわかってくる。それをのちに、曾祖父母(川瀬元九郎&冨美子)が買取り、その三女であった祖母が結婚後に譲られて、孫である私もそこで生を享けた。

 昨今の都市再開発の煽りで、恵比寿周囲はすっかりどれもこれも変わり映えのしないマンションだらけになり、恵比寿3丁目(旧伊達町)近辺の木造家屋は、ほぼこの屋敷とほかに数軒しかない。だが、桜の木の精がいるのか、この屋敷は関東大震災も東京大空襲も傷ひとつなく生き延びることができた、いわば奇跡の屋敷なのである。詳細は “Headmaster’s Voice”第 19回でも綴ったので、参照されたい。いささか古くなるが、一族については下記ゼミのウェブサイトの「エッセイ」における「桜の木は残った」「ボストンの人々」も参照(http://www.tatsumizemi.com/2000/02/miscellaneous-workscontents.html)。

 さて、そんな家と咲き誇る桜に魅了されたのが、坂の中腹にある中国大使館別館(半世紀ほど前にできた時には「中国貿易事務所」)に常駐していた新華社通信の記者たち、特にこの記事をまとめてくださった王子江(Wang Zijiang)&楊汀(Yang Ting)のおふたりであった。楊氏は流暢な日本語を操り、王氏は滑らかな英語を喋る。おふたりは、かつて三田村と呼ばれ、のちに恵比寿と改名したこの界隈全体についても深い興味を抱いており、地元民のわれわれ以上の知識を蓄積し調査を継続していたのが、驚きだった(https://h.xinhuaxmt.com/vh512/share/11764725?d=134b3c9)。それは、現在の私がウェストチェスター郡に関心を持ち、折に触れてリサーチするようになったのと同じことかもしれない。

 なお、新華社通信編集部からは 出来上がったインタビュー記事のAIによる英訳も送られてきたのだが、ここはやはり、長年の友人で SF&ファンタジー作家、翻訳家、そして現在では何よりも中国文学者として令名を馳せる北星学園大学文学部教授・立原透耶氏のお手を煩わせるしかないと考えた。

中国 SF座談会(2019年夏):左から二人目が立原透耶氏。その右から順に、中国 SF研究家・林久之氏、作家の津原泰水氏、筆者、作家の茅野裕城子氏、翻訳家の泊功氏。両端は、左端が翻訳家の上原かおり氏、右端がモンヤン氏(作家・王晋康のエージェント)

 

 立原氏は作家としては 1991年にコバルト読者大賞でデビューし、以後は多くの作品を発表、 2016年から 2018年にかけて、すでに『立原透耶著作集』全五巻(彩流社)も刊行しているほどのベテランだが、ここ十年ばかりは、我が国でも人気沸騰中の中国 SFを網羅的に紹介・翻訳し、世界的ベストセラーとなりオバマ元大統領も絶賛した劉慈欣の『三体』三部作の監訳も担当しているから、ご存じの方も多いかもしれない。

 2021年にはそうした業績が総合的に評価されて第 41回日本 SF大賞特別賞を受賞。超多忙の中、無理を言って仕上げていただいた名訳をお楽しみいただければ幸いである。

 

隣家の百年の桜の木
王子江&楊汀
翻訳・立原透耶

 隣の家の庭には、とてもとても古い桜の木があります。オフィスの窓から見上げると、その木が見えます。その古木の背後には、灰色の屋根を持つ伝統的な日本式の木造家屋があり、遠くに見える高層アパートの背景によって、一層際立って見えます。桜の木は年に二度、春の花と秋の葉で私たちの生活に彩りを添えてくれます。

 ある日、長年住んでいた東京をもうすぐ離れるかもしれないと感じた時、ふと思いました。「古い木と古い家は多くの物語を目撃してきたはずだ。なぜ家の主人に話を聞いてみないのか?」そう思い立ち、私たちはドアをノックしました。出てきたのは30歳ぐらいの男性でした。私たちが来た目的を説明すると、彼はこう言いました。「家は妻の実家で、妻の意見を聞いてから、一族の年長者を見つけます。彼らはあなた方に家と桜の木の話をしてくれるでしょう」

 一週間後、私たちは返事を受け取り、午後6時半に古い家で会うことになりました。その古い家の外は、静かな二つの通りが交差する場所にあり、桜の木は大門の左側に、大門の右側には白い大理石で作られた「栗田大禄」と刻まれた長方形の石があります。大門を押して庭に入ると、家のドアの左側には黒ずんだ木のプレートが掛かっており、毛筆で「栗田和子」と書かれています。その隣には、桜の模様が施された新しいガラスの名札があり、「関口」と二文字が書かれていました。

 庭で待っていると、一対の中年の夫婦が外から入ってきました。彼らが私たちに話をしてくれる人です。そこで、この夏の夕暮れに、私たちは二人について、桜の枝葉に隠れた、馴染みのあるようで未知の古い家に初めて足を踏み入れました。家に住む若い夫婦と彼らの猫も、私たちの訪問を温かく迎えてくれました。

 これは二階建ての家で、階段が正面玄関に面しています。大門を入ると、左側の壁にはさまざまな時代の写真が貼られており、白黒写真の人物の数や服装から、この家に住んでいた人たちは決して一般人ではないと感じられました。

 中年の男性は50代に見えますが、実際には67歳です。彼の名前は巽孝之で、退職前は慶應義塾大学でアメリカ文学を研究する教授で、日本アメリカ文学会の会長を務めていました。若い頃はアメリカのコーネル大学に留学し、博士号を取得しました。2021年に慶應義塾大学から退職し、 2022年には慶應義塾ニューヨーク学院の学院長に就任しました。彼の妻、小谷真理は有名なSF&ファンタジー評論家で、『女性状無意識』で日本SF大賞を受賞しました。若い女性の名前は永井沙織で、関口尚吾と結婚して夫の姓に変わったため、玄関のガラスの名札は「関口」となっています。

 家族の歴史は長く、人物関係は複雑で、私たちはリビングルームでゆっくりと話をするように招待されました。家は典型的な日本式建築ですが、家の中は意外にも西洋式の家具が整えられています。暖炉、ソファ、ステレオ、ピアノ……特にステレオの上に置かれたレコードは、遠い過去を語っているかのようでした。

 「私はこの家で生まれ育ちました」と巽孝之は言います。「しかし、その桜の木がどれくらい古いかはわかりません。記憶がある限り、その木はすでにとても老いていました」

 この木は1979年にすでに「渋谷区保護樹木」というプレートがかけられていました。巽孝之によると、家族の中でこの木がいつ、誰によって植えられたのかは誰も知らないが、家の年齢を元に推測すると、少なくとも100年は経っているとのことです。

 家の由来については、巽孝之の外曾祖父、川瀬元九郎から話を始めなければなりません。元九郎は1871年に生まれ、父は明治維新前の日本岐阜県旧加納藩の藩主の家臣でした。元九郎は1893年にアメリカに留学し、1899年にボストン大学で医学博士の学位を取得しました。帰国後、40年以上にわたって医師として活動し、東京の聖路加病院の設立を手助けしました。彼の妻、川瀬富美子もアメリカに留学し、タフツ大学では生物学を学び、のちに夫と一緒にスウェーデン体操の普及で名を馳せました。

 巽孝之によると、この家は元々慶應義塾大学が招聘したアメリカのハーバード大学教授のための外国人宿舎として使用されていました。1910年頃、川瀬元九郎はすでにかなり成功した医者で、東京の恵比寿地区で複数の独立した家を購入しました。その中には慶応大学から売却されたこの家も含まれていました。川瀬元九郎夫婦は6人の娘と2人の息子をもうけ、娘たちが結婚するにつれて、彼は彼らにそれぞれ家を与えました。この桜の木がある家を得たのは三女の稔子でした。

 稔子は1923年に三井銀行の銀行員・栗田大禄と結婚したので、家の入口の石門には栗田大禄の名前が刻まれ、それは今日までずっと保存されています。彼らは2人の息子と2人の娘をもうけました。長女の和子、次女の千鶴子、長男の晴正、次男の久暉です。千鶴子は巽孝之の母であり、晴正は関口沙織の外祖父で、日本カネボウ化粧品会社の取締役を務めていました。

 「桜の木は私にとって多くの美しい思い出を残しています。春に花が咲くと、いつも多くの友人が花を見に家に来ます。2階の寝室が花見に最適な場所で、来た多くの友人は帰りたがらないのです」と巽孝之は言います。

 この桜の木の品種は東京では珍しく、枝が特に太いのが特徴で、山桜の一種であると思われます。巽孝之によると、家族の多くが調査した結果、長野県の高遠城で見たことがある類似の桜であり、宮崎駿の映画にも登場したことがあるそうです。毎年花の季節には、ほとんど通り全体を覆うほど花が咲き、多くの人々が遠くから桜を見に来るため、多くの観光バスがこの地をルートに含めているほどです。

 一般に桜の木の寿命は100年程度ですが、この桜は100歳を超えてもなお生命力が旺盛です。唯一の残念なことは、数年前に花が盛んに咲きすぎて道路を隔てた向かいのアパートまで枝が伸びてしまい、隣の家に迷惑をかけるのを心配して、枝を少し庭師に剪定してもらったことです。しかし、運悪く桜の手入れを理解していない庭師にあたってしまい、木の元気を損ね、その後2年間は花がうまく咲かなかったため、去年は埼玉県から桜の専門家を招き、老木に対して丁寧なメンテナンスを行い、かつての繁栄を取り戻すことを期待しています。

 巽孝之によると、毎年花の季節にはこの家で数日間、桜を楽しむ会を一種のオープンハウスとして開催し、「毎年70人から80人が家に桜を見に来る」とのことです。だから、その数日間はいつも古い家から賑やかなパーティーの声が聞こえたのも不思議ではありません。

 家の名声は桜の木に劣らず、2015年には有名な日本の映画監督、北野武が巽孝之の伯母の栗田和子に連絡を取り、この家を舞台にするため、コメディ映画『龍三と七人の子分たち』の撮影を行いました。そのため家の前の坂が半日以上封鎖され、後にこの映画は非常に人気を博しました。

 巽孝之によると、この古い家に住む人々はみな長寿で、外祖母の稔子は2001年に98歳で亡くなりました。リビングルームには彼女が96歳の時に書いた書道作品「龍」が今もかかっています。姨母の和子は四兄弟の中で最も体が弱いとされていましたが、結果的に最も長生きしました。4年前、沙織が引っ越してきて、大伯母の和子の世話をするようになりました。2023年春、和子は97歳という高齢で亡くなり、沙織がその古い家の新しい主人になりました。

 以前、私たちはよく老婦人が家の入口で日光浴をしているのを見かけましたが、彼女が和子だとは知りませんでした。今年、桜の花が散る時、沙織が木の下で花びらを掃除しているのを見て、「林黛玉が花を埋葬するような感覚はありますか(『紅楼夢』の登場人物の一人、林黛玉が枯れた花を土に埋めて埋葬する有名なシーン。感受性豊かで繊細な彼女の性格が現れている)」と尋ねたところ、彼女は笑って、「落ちた花を掃くのは大変ですが、もちろん秋の落ち葉を掃く方がもっと大変です」と答えました。

 古い家がある恵比寿の付近は以前はビール工場を中心にした工業地帯でしたが、1990年代に工場が移転し、リノベーションを経て、現在は東京で有名なレジャー・エンターテインメント地区となっています。近くの古い家のほとんどはアパートに改築され、隣人も次々と変わりました。巽孝之によると、古い家はいくつかの簡単な修繕を施しただけで、大きな改造は一度も行われていません。多くの開発業者がこの家を買い取って土地を再開発したいと考えていますが、家族の全員が家はそのまま保持するべきだと考えています。なぜなら、古い家は家族の運気の象徴だからです。

 家はまず1923年の関東大地震を避けて無事でした。1945年、日本軍の抵抗に対処するため、アメリカ軍は東京に対して無差別爆撃を行い、恵比寿も爆撃の重点地域で、この地域は廃墟となりましたが、この古い家はほぼ無傷でした。

 家族全員が、家の幸運は桜の木の「霊性」と関連があると考えており、桜の木が家族を「守ってくれた」と信じています。最新のメンテナンスの後、沙織は、いつの間にか木の下に新芽が出ているのを興奮して発見しました。その夜の別れ際に、彼女は携帯電話のライトを使って、私たちにこれらの新芽を見せてくれました。

 100年以上の発展を経て、かつての二人のアメリカ留学生は、有名な政治家、音楽家、外交官、大学教授、銀行家、大企業の幹部を輩出する力強い大家族を築き上げましたが、川瀬家の現在の人々には川瀬の姓を名乗る者はいないようです。川瀬元九郎の二人の息子のうち、次男の川瀬登は五歳で早世し、長男の川瀬進は軍医として戦争に参加し、1945年にソ連赤軍に捕えられ、3年後に西シベリアで病死し、日本には戻れないまま、極寒の地で亡くなりました。この悲劇の根源は、日本自身が引き起こした戦争です。

恵比寿桜屋敷を守る親族:前列巽夫妻の後列左から、現在の桜屋敷の当主・関口沙織(巽の母方の祖父母の長男・栗田晴正の孫)、その夫・関口尚吾、栗田信久(同じく祖父母の次男・栗田久暉の次男)、栗田元気(栗田久暉の長男・孝久の長男)

 巽孝之には多くの著作があり、家族のメンバーや古い家、桜の木についての日本語と英語の文章を多く書いています。ある文章の終わりで、彼は第二次世界大戦が終わりかけの時、外曽祖母が家族を連れて東京郊外の吉祥寺で空襲を避けていたことを書いています。彼女は震える孫たちに、「恐れることは何もない」と何度も言っていました。

 この老婦人は夢にも思わなかったでしょうが、東京で10万人以上がアメリカ軍の爆撃で死亡し、都市の大半が平らにされたのです。

 この日本が引き起こした戦争からすでに78年が経過しましたが、この家族にとって、世紀は過ぎ去り、過去は煙のように消えていきました。ただ古い家の前の桜の木だけが、毎春必ず美しく咲き誇っているのです。