パーチェス便り

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#23 知の野人・南方熊楠

 『福翁自伝』をひもとくと、若き日の福澤諭吉先生が長崎へ「遊学」した時の経緯に出くわす。それまでアルファベット26文字から成る横文字など全く知らなかった福澤先生が兄三之助に伴われて長崎に赴き、洋学に接し、横文字の原書を読むようになるきっかけであった。1854年、諭吉19歳の時の蘭学開眼である。この長崎遊学がなかったら、のちの欧米視察も、とりわけアメリカ合衆国への二度にわたる訪問も、ありえなかったろう。

 諭吉に続く世代は、正式にアメリカの大学に入学する「留学」を志す。記念すべき日本人アメリカ留学第一号は、1861年には同じ咸臨丸でアメリカ初訪問を遂げながら、のちに諭吉とは犬猿の仲となる勝海舟の嫡男、勝小鹿(かつ・ころく)。1867年、まだ15歳の時に、彼はニュージャージー州のラトガーズ大学に留学するのだ。福澤先生の長男でのちに慶應義塾の第五代塾長も務める福澤一太郎は、それからさらに16年ほどあとの1883年にアメリカ留学し、オハイオ州のオーバーリン大学やニューヨーク州のコーネル大学に学んでいる。

 さて、ここに1867年和歌山県生まれで、東京帝国大学を卒業した後には、アメリカとイギリスに留学した南方熊楠という学者がいる。国民作家・夏目漱石と全く同い年であり、学歴も似ている。ともに『方丈記』の英訳に関わったという奇遇ばかりか、熊楠がイギリス留学から帰国した1900年は漱石がイギリス留学を始めた年であるという奇遇もある。とはいえ熊楠は、国民文学を放った作家ではないので、漱石ほどには知名度は高くないかもしれない。今日の尺度からすれば、大学や大学院で学位を取得したわけでもないので、博士でもなければ教授でもない。したがって、大学をはじめとする何らかの研究機関でサラリーを得ていたわけではなく、財源は主として、酒造業を営む実家ないし篤志家である。いわば在野の学者であり、偉大なるアマチュアである。けれども、熊楠がいなかったら、今日の日本の民俗学も博物学も生態学も文化人類学も環境保全運動も成立していなかったのではないか。学歴社会や業績主義を吹き飛ばしてしまうほどの知の巨人であったのは間違いない。

 彼は1887年、20歳の時に、アメリカ中西部はミシガン州立大学に入学。やがてフロリダやキューバで生物や植物の調査や標本採集を続ける。さらに1892年、25歳の時にはイギリスへ渡り、ロンドンの大英博物館に入り浸る。アメリカ留学時代にはすでに、新発見の緑藻について、今日ではノーベル賞への近道とさえ言われる科学雑誌<ネイチャー>Natureに論文を発表し、イギリスに渡ってからも同誌に「極東の星座」を発表するなど旺盛な活動はとどまるところを知らない。こうして彼の名はまず、日本よりはむしろ英語圏のアカデミズムで広く知られるようになる。とりわけ、粘菌研究を中心とした彼の学識はさらに深まっていく。粘菌は植物と動物、生物と無生物、生と死の界面に棲息する不思議に、熊楠は惹かれたのだ。

 1900年の帰国後は、故郷和歌山の森を重視し、神社合祀反対運動へ身を投じて、自然環境保全に乗り出す。そして1929年、62歳の時には、田辺湾沖に停泊した軍艦長門艦上で、昭和天皇に粘菌について進講。進化論で著名なイギリスのチャールズ・ダーウィンと同じく、南方熊楠もまた、大学をはじめとする何らかの学術研究組織に正式に属したわけではなかったけれども、その学識と研究においては国際的知名度を誇っていた。1941年、日米開戦の直後に永眠。享年75。

 熊楠の人生が面白いのは、自らの知的好奇心の赴くままに自らの信じる学問を無我夢中になって追求し、特定の指導教授に師事するわけでもなければ、特定の学問流派に与するわけでもなく、ただひたすら本を読みあさり、自然から生物や植物の標本を集めまくったことである。どこに留学してもその姿勢は変わらないので、限りなく遊学に近い留学ということになろうか。現代の言葉で言えば、オタク的コレクターだろうか。とはいえ、インプットばかりではない。熊楠は百科全書的知識をフル動員して膨大な論考をものしたうえに緻密な日記も残し、それらアウトプットの集積は『南方熊楠全集』全十二巻(平凡社)として公刊されている。

 今日では、学問教育はすべてあらかじめプログラミングされ、一定の試験を突破しなければ一定の資格を得られず、一定の肩書きがなければどんなに広く深い学識の持ち主でも決定的な信用は得られない。一定の査読を経た業績を積まなければ、大学内部の昇任人事にも通らない。しかし、知の巨人ならぬ知の野人と呼ぶべき熊楠の場合、そんなものは全て俗物たちに都合のいい制度に過ぎなかった。彼の基本は知的好奇心だから、あくまでも自分が面白いと思うものが尺度であって、それがどのような実利を産むのか、どのような栄誉をもたらすのかといった、一切の俗世間的損得勘定は無用の長物にすぎない。もちろん、熊楠の猪突猛進ぶりは、時に飲酒や暴力といった形で悪影響を及ぼしたこともあるから、今日の基準ならば、単なる困った人だったろう。しかしそうした型破りなライフスタイルの中にこそ、現在のあまりにお行儀のよい知的生活に決定的に欠けている何かがそこに潜んでいるのも、疑いえない。

 実際、そんな彼の姿に共感し応援する人々も少なくなかった。

学問研究の財源は、実家ばかりではなかったのである。

 たとえば熊楠がロンドンにおける留学時代を送った1890年代後半、横浜正金銀行ロンドン支店の支店長は中井芳楠(1853〜 1903)であり、その部下にはのちに支店長となる筆者の祖父・巽孝之丞(1865〜1931)がいた。両者はともに和歌山県出身。ゆえに1867年生まれの南方熊楠が、ほぼ同年代の祖父に親近感を抱いたのは想像に難くない。そうした背景から両者が熊楠と頻繁に交流し、酒を酌み交わし、精神的にも財政的にも援助し援助される関係にあったことは、南方熊楠全集別巻 2の日記からも窺われる。日記には、熊楠がイギリスの学術誌に出す英語論文のゲラを祖父が校閲した事実さえ、記録されている。

 今日の紋切型イメージからは想像もできないかもしれないが、当時、欧米への留学生がようやく増え始めた世紀転換期においてーー奇遇にも日清戦争に勝利した日本が欧米の帝国主義に追いつき追い越そうとする時期、横浜正金銀行も世界中に支店ネットワークを拡大していた時期においてーー銀行はそうした留学生の勉学生活を支援する一種のメセナとして機能していたのだ。今日のような留学生制度や奨学金制度がまだまだ確立していない時代であるから、それはあくまで、知的好奇心を共有する銀行が才能ある若者に見返り抜きで投資する姿勢、すなわち、イギリス貴族でいう「ノブレス・オブリージュ」(noblesse oblige)の心意気と通底しよう。

 以上のような家族的経緯があるがゆえに、筆者はこのところ、和歌山県田辺市に設立された南方熊楠顕彰館との共同研究にしばしば参加を求められるようになった。慶應義塾大学を定年退職した2021年10月から11月にかけては、同館で「紀の国わかやま文化祭2021特別連携事業 第60回月例展 熊楠とゆかりのひとびと第42回」として「巽孝之丞と横浜正金銀行の人々」なる展覧会が開かれ、11月7日には現在最先端の熊楠学者・志村昌幸氏を司会とする「巽孝之丞のロンドンーー南方熊楠、夏目漱石、小泉信三」なる講演会まで行われた。それは、私にとって、一度も会ったことのない祖父とそのロンドン生活をめぐって、調査を一層深める好機であった(https://www.minakata.org/20211107youtube/)。

 それから四年。同じ熊楠顕彰館の開館20周年プレイベントとして、昨年2025年12月20日には慶應義塾大学三田キャンパス第一校舎2階の大教室123番教室において、今度は「第15回南方熊楠ゼミナール」として「シンポジウム 南方熊楠と福澤諭吉――慶應義塾と和歌山」が開催され、福澤研究センターの都倉武之、前掲志村真幸、そして南方家の末裔であり家業の酒造業「世界一統」の現代表取締役の南方雅博の各氏とともにパネリストを務めることになった(https://www.agara.co.jp/article/581653)。福澤先生と熊楠とは直接会って親しく交流したことはないはずなので、筆者にとっては、福澤先生が第二代塾長・小泉信吉や第四代塾長・鎌田栄吉など和歌山県出身者、すなわち紀州藩出身者を重用する傾向があった事実から説きおこし、初期は確実に和歌山系で成立していた横浜正金銀行のメセナ的性格を強調したのだが、調べていくうちに、ひとつわかったことがある(https://www.minakata.org/20260201news/)。

 それは、福澤先生の言う「天爵」と「人爵」の対立概念が、熊楠にもそっくり当てはまることだ。後者が俗世間の価値体系だとすれば、前者は天から授かった爵位であり、転じては生まれつき備わった徳望を指す。実際、福澤先生は徹底した官公庁嫌い、官立嫌いであり、急進的なほどに私学の精神を重視したから、自ら樹立した学士院を、官立系が介入してくるや否や、さっさと辞任してしまったほどである。官立系は福澤先生にとって、人爵世界そのものなのだ。晩年の『瘠我慢の説』(1891年脱稿、1901年没後発表)の冒頭で言う「立国は私なり、公にあらざるなり」は、立国もまた私学の精神に則り独立自尊を貫いていなければ、いつ植民地化されてしまうかわからないという懸念の表れであろう。福澤先生にとって、俗世間とは人爵一辺倒の他人志向世界である一方、真の独立自尊は天爵説とも矛盾しない。孔子の言う「五十にして天命を知る」を思い起こせばよい。

 そして熊楠もまた、福澤先生亡きあとの1914年に、とある書簡で、こう述べている。「小生は故福沢諭吉氏の天爵説に心酔し、今に学位とか学会員と申すは一切辞退致しおり候。ロンドン大学の前総長ジキンス至って別懇にて、一年間表向き同校の聴講者と署名だけしたら博士の学位をとれると毎々すすめられしも、小生そんなことは無用と申し、ことわり申し候」。

 21世紀現在の競争社会では、夢物語のように聞こえるだろうか。しかし、一切の人爵を取り払った熊楠が、何らかの目的論に回収されることなくーーすなわち昨今の紋切型と化した「役に立つ学問」なる要請など、はなからかまうことなくーーただひたすらに知的好奇心を探究し続けた姿勢の中にこそ、もうひとつの「学問のすゝめ」が透視できるような気がするのは、筆者だけではあるまい。