パーチェス便り
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#3 福澤スピーチデイ
去る 1月 17日、昨年 10月に行われたニューヨーク州私学連盟(New York State Association for Independent Schools)代表査察団六名による審査の結果が届いた。慶應義塾ニューヨーク学院はめでたく合格し、以後中間審査が行われるまでの最低五年間は、ニューヨーク州の私立高校として認可が保証される。日本における慶應義塾の一貫教育校としてのみならずアメリカにおける私学としても認可されているという二重のステイタスが、本学院最大の特徴だから、それを変わりなく維持できることになったのは、本ブログ読者の皆さんとも分かち合いたい、まことに慶賀すべき僥倖である。
ところで我が国でいう私学は 英語では “private school”と訳すのが慣例だが、よくよく考えればイギリスの パブリック・ススクール(public school)も実は私学である。だがニューヨーク州においては、このように慣れ親しんだ公私(public/private)の二分法を超えて、“independent school”と呼ばれていることは興味深い。というのは、これこそ福澤精神の「独立自尊」に最も近い「私学」の概念だからである。
21世紀現在の日本において、カタカナ表記される「インディペンデント」は、全く違うニュアンスを醸し出す。大企業に対比される小規模企業や、メジャー・レーベルではないマイナー・レーベル(インディーズ)、年2回の巨大同人誌即売会を中心に今や国際的な注目を浴びているコミック・マーケット、ひいては大学など一定の学術機関に属さない市井の学者研究者(インディペンデント・スカラー)などなど。
だが、福澤先生がアメリカ的概念としての “independence”に想いを込めた「独立自尊」の本義は、規模の大小に関わらず、一切の国家的制約を免れ官僚的圧力に屈さないこと、これである。こうした反権威主義的メンタリティと、封建制社会を根本から覆す「門閥制度は親の敵でござる」という名言は矛盾しない。アメリカ独立革命において建国の父祖たちが立ち上がったのも、三角貿易の結果、経済力も軍事力も兼ね備えるに至ったアメリカ植民地が、すでに宗主国イギリスの庇護や介入を受けなくとも自立できるようになったためであった。そうしたアメリカ的独立精神と、日本的身分制度を批判する反権威主義精神が融合した瞬間、「独立自尊」がもたらされる。それを促進するのに不可欠だったのが、西欧的な演説と討論の普及にほかならない。
かくして福澤先生は、 1872年にベストセラー『学問のすゝめ』初編を放った翌年1873年に、慶應義塾初期の塾長を務めた小幡篤次郎や小泉信吉らと語らい、西欧的な演説と討論を、政治家や学者ばかりでなく一般大衆をも含む形で日本に定着させようと、 1874年、三田演説会を組織し、 1875年には三田演説館を開館して、錚々たる論客たちを育成していく。ここで肝心なのは、福澤先生自身は稀代の名文家であったけれども、文章によるやりとりばかりにかまけるのを「筆談」と断じ、演説によってこそ「味」が出ることを強調している点だ。原文を引く。
演説をもって事を述ぶればその事柄の大切なると否とは姑く擱き、ただ口上をもって述ぶるの際に自ずから味を生ずるものなり。文章に記せばさまで意味なきことにても、ただ口上をもって述ぶればこれを了解すること易くして人を感ぜせしむるものあり」(『学問のすゝめ』第12編)
それから 80年を経た 1956年以降は毎年 5月に三田演説館で「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日」という、名誉教授を中心とする碩学たちを招く講演会が開かれ、演説の伝統を継承しているのは周知の通りだ。私自身も、拙著『ニュー・アメリカニズムーー米文学思想史の物語学』(青土社、 1995年)が翌年に福澤賞を受賞したため、 1997年 5月に同記念日の講師を務めたことがあるが、まだ助教授の分際だったから、老大家たちを中心とする聴衆を前にひたすら恐縮するばかりだった。
しかし一方、三田演説会の構想から 150年を経た現在、毎年2月には慶應義塾唯一の北米拠点にて、三田の記念日に対応するイベント「福澤スピーチデイ」が、文字通り「三田演説館」に対応する「スピーカーズ・ホール」で毎年継続され、こちらでは老大家どころか、21世紀ならではのテーマを据えた若き俊秀たちが、それぞれユニークなスピーチを和英双方で行い、才能を開花させているのは壮観というほかない。
私が学院長として初めてパーチェスの地を踏んだのは昨年 2022年 2月 19日だが、その直後 21日に開かれた福澤スピーチデイは実に刺激的だった。そして今年も、内容もさることながらパワーポイントなど見せ方、聴かせ方において、さらなる深化が見られる。イベントの主眼自体を手玉に取ったメタ発表や、あえてタイトルを隠しつつ話を展開し最後で聞き手を驚かせる掟破り発表まで、スピーチそのものの超進化を、私は大いに楽しんだ。それはやがて、慶應義塾における演説/討論の伝統を根本から刷新するかもしれない。